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柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯

柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯

6完結!

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作品のあらすじ
酒どころで有名な神戸の灘で、中心的酒造家という裕福な環境に生まれた嘉納治五郎。利発な少年で秀才の誉れ高かったが、 体格に恵まれないひ弱な身体を鍛えたいと、柔術を学ぶことを決心した。世は文明開化、古臭い武道など廃れていく運命にあ った時代に、古来から伝わる天神真楊流や起倒流を修業し、自らの工夫も加えて柔術から柔道へと進化させていく。修業に加 わった富田常次郎とともに研究苦心を重ね、明治15年5月永昌寺において、遂に講道館が誕生した!明治維新により滅びて いくかと思われた古流柔術の中から、世界に雄飛する柔道を生み出した男の激闘を見よ。
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    酒どころで有名な神戸の灘で、中心的酒造家という裕福な環境に生まれた嘉納治五郎。利発な少年で秀才の誉れ高かったが、 体格に恵まれないひ弱な身体を鍛えたいと、柔術を学ぶことを決心した。世は文明開化、古臭い武道など廃れていく運命にあ った時代に、古来から伝わる天神真楊流や起倒流を修業し、自らの工夫も加えて柔術から柔道へと進化させていく。修業に加 わった富田常次郎とともに研究苦心を重ね、明治15年5月永昌寺において、遂に講道館が誕生した!明治維新により滅びて いくかと思われた古流柔術の中から、世界に雄飛する柔道を
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    産声を上げたばかりの講道館に、後に姿三四郎のモデルとなった天才・西郷四郎が入門する。しかしまだ入門者から金を徴収 するどころの騒ぎではなかった。嘉納はいかに弟子を得るかに苦しみ、道場の確保にも苦しんだ。しかしそんな嘉納に、起倒 流の飯久保は免許皆伝を与え、伝書も託す。そしてこの頃、初めて道場に講道館の看板が掲げられた。後に講道館四天王と謳 われる俊英たちが、続々と入門してくる。ある日他流派の道場開きに講道館から出席した富田常次郎は、模範稽古をみた警視 庁の柔術家・中村半助に手合わせを申し込まれた。警視庁最
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    講道館は麹町富士見町時代に入る。血のにじむような稽古と技の研究に明け暮れていた道場生に、明治19年嘉納から警視庁 武術大会への参加が発表される。柔道が初めて、天下衆目の前で柔術と戦うときが来たのだ!この大会で柔術を制した講道館 柔道は、揺るぎなき地位を確立する。嘉納は講道館・嘉納塾を率いる一方、学習院教頭という公務においても教育者としての 情熱を傾けた。明治22年には、教育事情調査のため1年以上に渡って、ヨーロッパ各地を外遊する。その嘉納の帰りを待た ず、あの不世出の天才・西郷四郎がひっそりと講道館を去っ
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    講道館紅白試合で5人抜きを達成した広瀬武夫は、ロシア留学中に芽生えた恋を日露戦争のために妨げられ、戦死を遂げてし まう。しかし講道館にも次代を担う新しいヒーローたちが誕生していった。京都武徳会の主任教授となった磯貝、講道館幹部 の一人となる永岡、そして後に10段に上り詰める三船久蔵も、講道館の門を叩く。明治、大正、昭和にかけて、嘉納を始め 山下、富田などの門下高弟たちの大きな苦労によって、柔道は海外にも普及して行った。また嘉納は教育界の要職にあって幾 多の人材を育てる。なお国際オリンピック委員として、オリ
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    発展の一途をたどる講道館。明治42年頃には、入門者数も1万人を超すまでになった。大正15年に、女子柔道部が正式に 発足する。昭和に移ると、御大礼記念天覧武道大会、皇太子殿下ご誕生奉祝天覧武道大会など、後世に名を留める柔道大会が 次々と行われていった。中でも特筆すべきは、昭和5年初めての全日本柔道選手権大会が、明治神宮外苑の特設会場で開催さ れたことである。国内はもとより、教育視察、柔道の普及活動、国際オリンピック会議出席など、数ヶ月に渡る外遊を毎年の ようにこなして行った嘉納だった。しかしこの超人にも遂に
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    最終巻。嘉納亡き後も、発展を続けていく柔道界。その軌跡を振り返る。女子柔道では最初の有段者・乗富政子、嘉納の恩師 福田八乃助の娘・福田敬子が嚆矢となり、戦後は天才・山口香を輩出した。また初期の柔道普及の大きな担い手となり、今な お隆盛を誇るのが、学生柔道と警察柔道である。第2次大戦後国際化を進めた柔道は、国際柔道連盟の発足、世界柔道選手権 大会の開催、そしてオリンピックの正式種目に加えられるなど、柔道はまさに世界の柔道として花開いた。今なお山下泰裕な ど強豪を生み出し続けている。